大澤真幸先生の講義

先週は休日、先々週はサボったので久しぶりだったが、今までで一番面白かった。
笑える面白さ(funny)も、興味深い面白さ(interesting)もあった。

  • 笑える面白さ

サッカーというスポーツは終末論的である。サッカーの原型となった競技は1点入ったら終わるものであった。滅多に1点が入らないものであり、得点とは神の起こす奇跡であった。それは近代のサッカーにも受け継がれていて、サッカーでは1対0が最も美しいスコアである。サッカーにはロスタイムという訳の分からない時間があるが、これは神の恩寵である。例えばキリストの復活を思い出せばいい。神は時々訳の分からない恩寵をくれるのだ。PKというものもキリスト教的である。PKは止めることが奇跡なのだ。ユーロ2004の仏対英は、まさに奇跡の試合であった。英は奇跡に見放された。ベッカムは奇跡によってPKを外してしまったのだ。仏は奇跡に救われた。ロスタイムという神の恩寵は気まぐれの奇跡を起こしたのだ。
→(俺の感想)なんたることだ!!
→(つっこみたいこと)大澤先生、ユーロ2004見てるんや!!!

  • 興味深い面白さ

現代では、諸文化における思想は駆逐され、西洋由来の「普遍性」のみが実質を持ったように思われている。果たしてそうなのか。
典型的な例として、自然科学を取り上げる。自然科学は文字通りの真理として受け取らがちである。検証可能性をもって、真理だとしているのである。しかし、検証可能性を自然科学の根本として求め出すと、自然科学は全て崩壊してしまう。例えば進化論は、検証可能性、反証可能性、共に持たないのだ。
では、この「西洋の普遍性」とは何か、独自性は何か?これは諸文化に比べて内容的に優れているわけではない。特徴は『普遍概念の欠落を同じ普遍概念によって批判することができる』という点で独自性を持っている、ということであり、これ以上でも以下でもない。
(例1)自然科学…「西洋由来の真理」のシステム(真理のシステムではない)
全ては仮説、即ち真理候補群である。全ての仮説に対して「改訂可能性」が残されている。仮説を乗り越えるのはまた、仮説である。(仮説を乗り越えるときに「科学的手続き」を経るのであるが、これもまた曖昧なものである。)
(例2)資本主義経済システム
資本によって資本を増殖し、新しい資本を生むシステム。
(例3)人権・民主主義…「西洋由来の行動規範」のシステム
決して今の民主主義は真の民主主義ではない。(今のホンモノではない)民主主義は、民主主義によって批判され、「真の民主主義」を目指す。(もちろん「真の民主主義」は、科学同様、永遠に実現されない。)


そういえば、先々週は、アメリカのサッカーもどき、アメフトとバスケはアメリカ的である、サッカーは人気がない、という話をしたそうだ。それを是非聞いてみたかった。残念だ。